ソフトウエアと制作目線で見る校正③ グラフィックソフトのレイヤー機能
印刷・出版の制作側から見て、データの特性や起こり得るミス、その原因を紐解くシリーズの3回目はグラフィックソフトのレイヤー機能です。
北斎も広重も使ったレイヤー
なんでトップの写真が唐突に浮世絵?と思ったことでしょう。レイヤーとは英語で「層」「階層」という意味です。階層構造に重ねてゆくこと。浮世絵版画もまた、1色ごとに「摺(すり)」を重ねたレイヤー構造になっています。
2024年に出る「新千円札」の裏面には、日本が世界に誇る浮世絵が採用されるそうです。せっかくだからその図柄、葛飾北斎『神奈川沖浪裏』とからめて書いていこうと思います。
この大波に富士山がのぞく浮世絵は、言わずと知れた「富嶽三十六景」の中のもっとも有名な1枚です。19世紀のヨーロッパを席巻したジャポニズムを代表する1枚であり、大英博物館、メトロポリタン美術館を始め世界各国の美術館に収蔵されています。江戸時代に売り出された当初からかなり人気のあった絵で、当時すでに数千枚が摺られて※いたと見られています。大人気ゆえに偽造品も出回ったみたいですよ。現代と変わりませんね。
レイヤー構造があって、大量生産できた浮世絵
浮世絵が描かれだした江戸初期は、版画ではなく一枚ものの絵でした。版画になったのは日本独自の「多色摺(たしょくずり)木版画」が飛躍的に発展した江戸中期から。レイヤーの概念である階層構造になっており、色ごとに摺り重ねていくんですね。それで何色も使った浮世絵版画が誕生したのです。
『神奈川沖浪裏』で言うと8枚の版木(はんぎ)を使って8回摺っています。
1)輪郭線、2)舟の肌色、3)舟のねずみ色、4)空の淡紅色、5)空の薄い墨色、6)空の濃い墨色、7)波の水色、8)波の藍色の計8色ですが、ぼかしやグラデーションを駆使して緻密に摺られています。
色鮮やかな美しい絵が安価に大量生産できるので、大衆商品としておおいにもてはやされました。版元(プロデューサー)の指示のもと、絵師(えし)と彫師(ほりし)と摺師(すりし)の完全分業で量産されました。絵師、彫師、摺師の数も多かったようですよ。なんだか、現代のデザイナーと変わらない気がします。浮世絵1枚の値段は蕎麦1杯分ほどと言うから、きっと儲かったのは版元だけ‥。
でも、絵師の力量はもちろんのこと、1ミリの中に2本の線を彫る彫師の神業と、その版木をぼかしやグラデーションをつけながら摺り重ねていく摺師の超絶技巧。この職人のプライド、職人魂があって初めて、ヨーロッパが驚くほど芸術性の高い浮世絵ができたんですね。
現代のレイヤーでありがちなミスふたつ
さて、現代ではイラレやインデ、フォトショなどグラフィックソフトに搭載されているレイヤー機能がこの階層構造に当たります。
レイヤーに分けておけば、あるレイヤーの色だけ一挙に変えたり、レイヤーの順番を入れ替えて違う重ね方にしたりが簡単にできます。理論上では何十枚でも何百枚でもレイヤーを作れるので、複雑なものを作るときに重宝します。実際は何十枚もレイヤーがあったらミス頻発でしょうが。
●ミスひとつめ:レイヤーの順番
そのミスとはレイヤーボタンにうっかり触ってしまい、意図せずレイヤーの順番を変えてしまう事故です。
レイヤーボタンの上下を変えることで簡単にレイヤーの順番を変えることができます。下の図は8つのレイヤーからできています。レイヤーボタンの順番を変えるとこのように変わります。ふたつの地図の違いを探してみてください。
●ミスふたつめ:別のレイヤーに混入
ふたつめは、入れるべきレイヤーにオブジェクトが入っていないがために起こるミスです。
この地図の信号はひとつのレイヤーになっています。信号が不要になったとして、信号のレイヤーを一気に削除します。実はそのレイヤーに信号以外の記号が混入してたら? それも消えてしまいますよね。下の地図で探してみてください。
あるいは、あとで削除するアタリのダミー用レイヤーに削除してはいけないオブジェクトが入っていたら‥? デザイナーはクライアントが容易に確認できるよう、実際には印刷されないアタリを入れてクライアントに見せます。
たとえば、最近送られてくるDMは、あなたの名前や以前買った商品名などが印字されていますよね。この方式はDPS(データプリントシステム or サービス)※と言います。クライアントから顧客情報を預かって、1枚ずつ違うデータを印刷するシステムのことです。
個別データが入っていない土台の部分のみの印刷物を先に作っておき、そこへ個別データをあとから印字する二段構えになっています。制作はその土台部分しか作らないのですが、クライアントには印字ダミーも入れた全体像を見せて確認をとります。
印字ダミーはレイヤーで管理しています。そして校了になり、印刷に入稿する時点で、不要になった印字ダミーは削除します。さあ、印字ダミーのレイヤーをまるごとバッサリ削除です。あれ?あれあれ? 本文の一部が消えた。あるいは、消すべきものが残ってた。なんてことになったりします。
入れるレイヤーをまちがえていたからなんですね。そういう視点を持って校正してみると、まちがいに気づきやすくなります。
制作目線で言うと、校了までに5校6校、下手すると10数回も修正が入ったりします。そのうちにレイヤーがグチャグチャになってきたりするものなのですよ。これはもう宿命としか言いようがありません。制作は、大波の中で激しく翻弄されるちっぽけな小舟のようなもの‥と、むりやり北斎に戻してみる‥。
そうそう、印刷用データには必ずトンボというものをつけます。色がずれていかないように見当合わせのためにつけるのですが、このトンボの原型が生まれたのは江戸時代だそう。浮世絵で多色摺りをするための「見当」だったんですね。いや、驚きました。そんな大昔からあったとは。だから和名で「トンボ」‥。
DMのことが出たので、次回は「郵便封筒のルール」についてです。
どうぞお楽しみに。